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トレーディング、Arts&Logic by 田中 雅

間奏曲

間奏曲(1):リーマン・ブラザーズとの約束

2009/10/14

リーマン・ショックまで

今を遡る15年前の1993年頃、オランダの自宅に当時の私には耳慣れないリーマン・ブラザーズ証券チューリヒ支店から電話が掛かってきました。

優良法人顧客のアカウントを運用してみないかと言う誘いでした。私は当時駆け出しの運用者として、ロンドンの日系最大手金融機関の資産運用を始めておりましたが、外資系からの話はこれが初めてだったので、とても興味を抱き喜んで引き受けたわけです。

ずっとオランダにいてほとんど帰国したことが無かったものですから、私のTradingの知識は全て英語仕込みであり、アングロサクソンの本舞台で一度は自分を試してみたいと言う気持ちがいつもあったのです。そのアカウントには東欧系ユダヤ人らしき名前の保険会社名が付けられており、後にこの会社はイスラエルに移ることになります。

さて、リーマン・ブラザーズは私に運用を任せるにあたり、長い契約書とは別に、私にある交換条件を提示しました。「プロとして取引に専念してもらいたいので、音楽は止めること」と言う条件です。私はもちろん「YES, of course」と答えたわけです。これがリーマン・ブラザーズとの約束でした。

丁度この頃、とうとう「音楽とトレーディング」のハザマで二束の草鞋(ワラジ)を履き続けることが重荷になり始めており、1993年の武生国際音楽祭のクセナキス・アンサンブルの日本初公演を最後に、私は音楽からは身を引いて取引に専念する決心をしていました。

武生の音楽祭を終えて燕尾服を脱ぎ捨て14年来の仲間にも別れを告げ、私はその足で、東京のホテルに移動し、ロイター社主催のテクニヘッジ特別セミナーで講師として日本での初舞台を踏んだのでした。

武生国際音楽祭1993年
(画像:武生国際音楽祭1993年)

不思議なことに、当時私は日本にバブルがあったということを知りませんでした。1971年にオランダに渡ってから日本の新聞を読む機会が無かったので、知るすべが無かったとも言えます。私の取引手法は数値的アルゴリズムだけを使うものだったので、特に不都合は無かったわけです。ネットも全く発達していませんでした。

羽田蔵相の名前は恐らく機内配布の経済新聞をしっかりと読んで知ってはいましたが「はねだ・ぞうしょう」と発音しておりました。羽田蔵相(はた・ぞうしょう)の事です。誰か金融関係の人が親切に教えてくれたのですが、本当に驚いたのは私ではなく、教えたその方だったことはもちろんです。

しかし当時の日本の金融界ではカオス理論やランダム運動の確率論を相場に適用するという技術を素人考えながら自らモデル化し実行するような人は皆無に近く、私は誰よりもその事に興味を持って考え込んでいた人間の一人であったらしく、反響は大きなものでした。セミナーの直後に幾つかの本邦金融機関や著名大企業の財務部からホテルに電話があり、日本の主力金融機関との繋がりが生まれ始めたのです。

さて、その数年後、オランダの自宅近所に買い込んだオフィスの一番大きな部屋には、取引に必要な機器は何も入れず、CNNやCNBCを流す為のフィリップス社製大型テレビと、子供が幼児期にかわいがっていたぼろぼろのテディ・ベアと、運用競技会のトロフィーが二つ転がっていました。そして奥の壁にはチェロが立てかけてありました。

1995年頃のオフィスとその奥トレーディング・ルーム、左側奥はチェロ
(画像:1995年頃のオフィスとその奥トレーディング・ルーム、左側奥はチェロ)

ここからは毎日のように、本来聞こえてはならないはずのバッハ:チェロ無伴奏組曲が密やかに流れてくることになります。

それから15年、2008年11月、とある秋晴れの午後、私は、アンサンブルの仲間とレストランで昼食会をしていました。自然と話題は世界金融危機に移り、私は音楽仲間には普通話さない金融界の体験を話していました。

「実は、リーマン・ブラザーズに頼まれて運用をしていた事があるんだ。」
「ええ、君に任せるなんて、それじゃあ、リーマン・ブラザーズが潰れるのは当然だよねえ。」
「いや、そうじゃなくって、これは10年も前の話なんだがね。」
そうするとコンサート・マスターが助け舟を出したのか、それとも皮肉なのかこういいました。
「じゃあ、君が辞めたから潰れたんだ。続けていれば良かったのに。」

マッド・クラブ(泥カニ)を食べる昼食会だったので、キチガイ・クラブと名付けたのですが、まあそういう名にふさわしい頓珍漢で的外れな会話ではあったと思います。

そういうわけで、私は結局リーマン・ブラザーズとの約束を、今日に至るまで果たすことが出来なかったのです。今となっては謝ろうにも、私に最初のチャンスを与えてくれたあの会社はある日突然門戸を閉じ、そして誰もいなくなってしまったのでした。

アインシュタインの功績:ブラウン運動

100年に一度といわれる世界経済危機

サブプライム問題に端を発し、リーマン・ショックで表面化したこの度の金融危機は「100年に一度の金融危機」と呼ばれています。100年と言いますと明らかに我々の身の丈を越えた時空を指しており、途方も無いことが起きているらしい事が伺えます。人類が経験した最後の最悪の金融大恐慌の年が1929年ですから、それよりも悪い状況なのだと思われます。

大恐慌時ウォール街に群がった人々
(画像:大恐慌時ウォール街に群がった人々/出典:Public Domain < Wikipedia Commons)

経済史書を紐解くと、当時の写真から推測できるように、投資家が取引所に押しかけ、失業者が路上に溢れ、それだけでなく、その後日本では関東大震災に襲われた挙句、世界は第二次世界大戦に突入していくと言う、その深刻な顛末の序章が1929年金融恐慌であったことが伺えます。それと同様の事が、いやそれ以上の事が、はたして今始まっているのかどうか、多くの人々がまだ実感しているわけではありません。

私はこの1年ずっとその事を考え続けて来ましたが、実は直面している事態を理解する事の難しさに圧倒されるばかりでした。大津波が押し寄せて来たと言う時に、私のすべきことは何なのでしょうか、逃げることでしょうか?それとも座り込んで、じっと考えるべきなのでしょうか?何の因果で途方も無い大津波が発生したのか、何故それが私たちに今襲い掛かるのか?これから世界はどうなるのか?

一つだけ、私にもはっきりと理解できそうな筋道が見つかりました。それは西洋文明の礎とも言える二つの双璧、科学と金融の因果関係でした。複雑極まりない世界の曼荼羅の中で、それは私も辿って来た道筋であり、理解できる数少ない文様(もんよう)でもあったのです。学問がお金の世界に飲み込まれて行く一つの痕跡をこれから辿ってみたいと思います。その序奏は文字通り「100年前」に始まったように思われます。

アインシュタイン、1905年

アルベルト・アインシュタイン
(画像:アルベルト・アインシュタイン/出典:Einstein 1921 by F Schmutzer.jpg < Wikipedia Commons < Public Domain)

ブラウン運動、1827年頃

1905年は物理学者の間では「奇跡の年」と言われているそうです。僅か26歳だったアインシュタインが「特殊相対性理論」など重要な論文を立て続けに発表し、後の理論物理学の礎を築いたからです。その中に「ブラウン運動」に関連する論文がありました。

「ブラウン運動」とは理科の教科書で学んだとおり「水に浮かんだ花粉が、飛び跳ねるような不規則な運動をして水面上を動き回る」現象を指します。もともとは英国の植物学者ブラウンが1827年頃に発見し、微小な生命体を発見したと当初勘違いし、詳細な記録を残していました。計測しそれを記録に残すことによって他者に知識を伝達し、それが再現され検証されることにより更に発展し進化していく。その巨大なリンクの網が西洋文明の特色である科学です。そのネットワークがいかに凄いものであるかは、これから書くお話しからも垣間見ることが出来ます。

ランダム運動と正規分布、及び拡散方程式

アインシュタインはこの運動を研究し、当時見ることも証明することも出来なかった「分子の存在」を証明する手がかりになると考えました。水の分子が花粉を動かしていると仮定すればよいことに気付いたわけです。

それを証明する為に、まるでデタラメに動いているランダム運動にはある規則性が存在し、それを単純な数学モデルで表現できることを突き止めたのです。ブラウン運動は「正規分布し」、「時間の平方根に比例して拡散する」という原理です。これが人類とランダム運動との数学的な出会いであったと言えます。

ところでアインシュタインといえば、もっと有名なあの「エネルギーと質量の等価式E=mc2(二乗)」を1907年に発表しています。この等価式が真実であるなら物質は巨大なエネルギーに変換出来ることを示しました。それは言い方を変えると、ゆっくりとエネルギーを取り出せば原子力に、一度に取り出せば人類がそれまで想像もすることが出来なかった悪魔の破壊兵器を製造することが可能だと言うことでした。その後の人類の歴史は、アインシュタインの予想通りに変わっていくことになります。

余談ですが、アインシュタインは6歳頃からバイオリンを学んでおり一時音楽家になるかどうか悩んだ時期があったそうです。また従弟のAlfred Einsteinは著名な音楽史家であり「モーツアルト」と題された491ページ(英語版)の大作を残しています。序文には「1944年マサチューセッツ州ノーザンプトンにて」と記されているので、アルベルト・アインシュタインとは、それ程は遠くない州に住んでいたようです。

株価の変動とランダム運動

さて、下図をご覧下さい。これは私がエクセルで作成した模擬ブラウン運動の軌跡です。

模擬ブラウン運動の軌跡

次に下図をご覧下さい。これは上図の擬似ブラウン運動の縦方向の動きだけを抽出して折れ線グラフにしたもので、単に時系列チャートに変換したランダム運動と呼ぶことが出来ると思います。
実は上図は縦横別々に計算した乱数列を合成し、折れ線でつないだ散布図に過ぎません。

擬似ブラウン運動の縦方向の動きだけを抽出して折れ線グラフ

これが株価の変動に「そっくり」であったことから、ウォール街では既に第二次世界大戦以前からこのランダム運動拡散方程式を株式の予想モデルに転用できないかと考え始めていた痕跡があります。(オランダ、ハーグのある裕福な投資家の、膨大な投資文献コレクションの中から私が見つけた古書に既に言及されていました)。

株価が何時何処にあるかの予想を確率でよいから予知できるなら、これは全く何も出来ないでただ呆然と立ち尽くすよりは良いに違いありません。(あるいは良くなかったのかも知れませんが、、、。)

これは科学的学問的な見地からも、そして何よりもウォール街存在の究極の目的である金儲けの見地からも、素晴らしい思い付きでした。「そっくり」と「同じ」とは厳密には別物だという事を無視さえすれば。

確率の導入と保険

純粋なランダム運動は正規分布をします。ですからランダム運動は、ご存知のように単純には標準偏差を経由して、精密には微分方程式を経由して確率計算が可能となるのです。これは大変な着想でした。確率計算さえ可能であれば、明日の株価の予想をすること等はもはやどうでもよく、実はもっと有効で重要な裾野の広い使い道があるのです。それは保険ビジネスでした。

ある事象が発生する確率さえ計算できるなら、保険ビジネスが可能となるのは当たり前のことです。ウォール街がこの事に気付くまでそれ程の時間は掛かりませんでした。平均的予想屋のオフィスは、その辺の小さなビルの隅っこに間借りしている程度と言うのに、保険会社となると巨大ビルを独り占めしておごそかに聳え立っているのですから、潜在的儲けの規模が桁違いであることは一目瞭然でした。

金融デリバティブといわれる商品のかなりの大部分が実は保険のプロダクトなのです。このようにして金融工学の最盛期が始まりました。つまりバブルの天井期が始まったというわけです。

金融派生商品

金融商品から派生した為に派生商品(デリバティブ)と呼ばれるこれらの保険で最初に大成功を収めたのがオプションでした。そのオプション価格を計算する為の方程式はフィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズが考案したので、ブラック・ショールズの方程式と呼ばれます。この方程式には価格変動は「時間の平方根に比例して拡散する」というアインシュタインのブラウン運動方程式がそのまま組み込まれています。

さて、聞きなれない新商品オプションが大ヒットし始めた1990年半ば頃は、私が読む米国系市場レポートには、啓蒙目的と営業目的の両建てでヒストリカル・ボラティリティーが必ずと言って良いほど掲載されておりました。

ところで毎回それを読むたびに変だなと思ったのは、それにいつも付随していた長い「但し書き」でした。「オプション価格とヒストリカル・ボラティリティーは、市場が正規分布しているという仮定に基づいて計算されている。また、ボラティリティーが将来も一定であると仮定している。ところで、市場が正規分布するとは証明されていない。また、ボラティリティーが将来も一定であると言う保障は何処にも無い。投資家は自己の判断と責任で投資されたし」。

これこそ所謂「正しいご利用計画」を勧告する但し書きであり、責任の所在と言う自己相克に付きものの典型的な宿命を辿っていきます。何万回も繰り返すことで陳腐化され、もはや無い方がましなくらいと判断されて、後にはこの警告は外されてしまったのです。そして誰も気に止めなくなりました。誤っているかもしれない仮定が取り払われ、正しいとされる数式のみが残ったのです。

バフェットの言う世界を破壊する金融時限爆弾の秒読みスイッチが入ったのは、恐らくその頃だったのでは無かったでしょうか。アインシュタインに言わせれば、「金融」と「工学」が結びついて金融爆弾が製造されるなど一瞬たりとも想像することは出来なかった、と嘆くかもしれません。想像できたとすれば、おそらく研究成果を発表しなかったでしょう。

1940年以降のアインシュタインは、核兵器の廃絶、戦争の根絶、そして科学技術の平和利用などを訴える平和運動に傾倒していき1955年に生涯を閉じました。一説によると「死とはモーツアルトが聞けなくなることだ」と言う言葉を残したと言われています。

ブラック・ショールズ方程式

ブラック・ショールズ方程式完成の一翼を担ったマイロン・ショールズ教授は、1997年にノーベル経済学賞を受賞します。ところが翌年には自ら経営陣として参画した巨大ヘッジファンドLTCMが破綻し、世界的な金融危機を引き起こします。教授はヘッジファンドに参画したときにノーベル賞を返還しようとは思わなかったのでしょうか。あるいはLTCMの破綻後には、そう迷ったのではないのでしょうか?これは学問のモラルと独立を考える上で非常に興味ある問いだと思われます。

その後ショールズ教授は更に精緻なリスク管理の仕組みを考案しプラチナム・グローブと言うヘッジファンドを再度立ち上げることになります。2007年には再び破綻し、顧客からの解約申し込みの受付を停止するという事態に追い込まれます。

数学は数式と仮定から成り立つものだそうです。数学はそれ自体限りなく美しく純粋な知恵の構造物であり、しかも検証と考察を経て絶対に破綻しない論理的正しさを備えています。にもかかわらず数学の適用が現世で破綻するのは、もともとの仮定が間違っていたという、笑うに笑えない単純な誤りによることが実に多いように思われます。一方、それ程の思い込みの激しさが無ければ、学問も芸術も成立はしていなかったのも事実ですから、これらは切り離すことが出来ない宿命なのかもしれません。

それでも花粉は動かない

考えて見ますと、水に浮かべた花粉を顕微鏡で見ても実はびくとも動きません。フワーと水に揺らいでいるかのような動きが見えるだけです。私は中学のときに自分の顕微鏡でそれを見たのですが、動いていませんでした。しかし、別におかしいとは感じませんでした。何と言っても教科書に書いてあることですからね。何か自分の側におかしいことがあるのであって花粉はきっと動いているのだろうと考えました。

ある著名な物理学者が同じ事を発見した時、その方は、自分の顕微鏡が安物だから見えないのだと結論付け、もっと高い顕微鏡を買わなければと考えたそうです。

ネットを最近読んで初めて知ったのですが、これはブラウンの著作を日本語翻訳した際の初期的な誤訳で、正しい訳は「水に浮かべた花粉が水を吸って炸裂した際に飛び出した微粒子が動き回る」というものだったのです。湯川秀樹博士や寺田寅彦氏のように著名な物理学者も同じようにこのことには気付かなかったそうで、教科書と言う権威に裏付けられた偶発的な勘違いが国民的規模で生まれた、と言う興味深いストーリーが幾つかネットに出ています。

マネー至上主義

世界金融システムを崩壊させたとも言えるサブプライム・ローンやクレジット・デリバティブとは、途方も無い勘違いだったのでしょうか?それとも最初から悪魔の発明であり、邪悪な企みであったのでしょうか?

恐らくどちらでもなく、お金を扱う限り、何をしても最後はマネー至上主義と言う動かしがたい教義に服従するという、現代文明の宿命だったのかもしれません。マネーよりも高い教義が人間にはあるのだと言うことを忘れないのは、それ程に難しいことなのでしょう。
名言を沢山残したアインシュタインもそのことに触れています。「宗教の無い科学は不完全(lame)であり、科学の無い宗教は盲目である。」

本来はリスクに挑戦し、それを克服しようとしたはずのデリバティブ商品。
その発達の歴史を扱った名著「リスク」の著者であるピーター・バーンスタインはその著の副題として“Against The Gods”「神々への反逆」という言葉を選びました。

間奏曲(1):リーマン・ブラザーズとの約束 田中 雅 2009/10/14